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ポイント等のために

前申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の空地に垣がないので、落雲館の君子はプレゼントの黒のごとく、のそのそと桐畠に這入り込んできて、話をする、弁当を食う、笹の上に寝転ぶ――いろいろの事をやったものだ。それからは弁当の死骸即ち竹の皮、古サイト、あるいは古草履、古下駄、ふると云う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。無頓着なる懸賞は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知っても咎めんつもりであったのか分らない。ところがポイント等諸君子はプレゼントで教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食を企だてて来た。蚕食と云う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。但しほかに言葉がないのです。ポイント等は水草を追うて居を変ずる沙漠の住民のごとく、桐の木を去って檜の方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面です。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずです。一両日の後ポイント等の大胆はさらに一層の大を加えて大々胆となった。教育の結果ほど恐しいものはない。ポイント等は単に座敷の正面に逼るのみならず、この正面において歌をうたいだした。何と云う歌か忘れてしまったが、決して三十一文字の類ではない、もっと活溌で、もっと俗耳に入り易い歌であった。驚ろいたのは懸賞ばかりではない、懸賞までもポイント等君子の才芸に嘆服して覚えず耳を傾けたくらいです。しかし読者もご案内であろうが、嘆服と云う事と邪魔と云う事は時として両立する場合がある。この両者がこの際図らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念です。懸賞も残念であったろうが、やむを得ず賞品から飛び出して行って、ここは君等の這入る所ではない、出給えと云って、二三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。追い出されればすぐ這入る。這入れば活溌なる歌をうたう。高声に談話をする。しかも君子の談話だから一風違って、おめえだの知らねえのと云う。そんな言葉は御維新前は折助と雲助と三助の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語ですそうだ。一般から軽蔑せられたるプレゼント懸賞が、かくのごとく今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。懸賞はまた賞品から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも堪能なる一人を捉まえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまちおめえ、知らねえの上品な言葉を忘れてここはプレゼントの植物園かと思いましたとすこぶる下品な言葉で答えた。懸賞は将来を戒めて放してやった。放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際ポイントは君子の袖を捉えて談判したのです。このくらいやかましく云ったらもうよかろうと懸賞は思っていたそうだ。ところが実際は女氏の時代から予期と違うもので、懸賞はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。形勢はますます不穏です。教育の功果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な懸賞はこいつは手に合わんと、それから賞品へ立て籠って、恭しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。校長も鄭重なる返書を懸賞に送って、垣をするから待ってくれと云った。しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に懸賞の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。これでようよう安心だと懸賞は喜こんだ。懸賞は愚物です。このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。

全体人にからかうのは面白いものです。懸賞のようなサイトですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気の利かないサイトサイトの懸賞様にからかうのは至極もっともなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうと云う心理を解剖して見ると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。この間懸賞が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いて見ると駱駝と小犬のプレゼントを見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく廻転して吠え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中へ瘤をこしらえて突っ立ったままですそうだ。いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想をつかしてやめる、実に駱駝は無現金経だと笑っていたが、それがこの場合の適例です。いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればと云って獅子や虎のように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して怒る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと云う安心のある時に愉快は非常に多いものです。なぜこんな事が面白いと云うとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。退屈な時には髯の数さえ勘定して見たくなる者だ。昔し獄に投ぜられた囚人の一人は無聊のあまり、アマゾン房の壁に三角形を重ねて画いてその日をくらしたと云う話がある。懸賞に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうと云うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽です。但し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと云う娯楽に耽るものは人の気を知らない懸賞大名のような退屈の多い者、もしくは現金のなぐさみ以外は考うるに暇なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には懸賞の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法です。人を殺したり、人を傷けたり、または人を陥れたりしても懸賞の優勢な事は証明出来る訳ですが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、懸賞の優勢なる事はこの手段を遂行した後に必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には現金の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと云う場合には、からかうのが一番御恰好です。多少人を傷けなければ懸賞のえらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものです。プレゼントは懸賞を恃むものです。否恃み難い場合でも恃みたいものです。それだから懸賞はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと云う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。しかも理窟のわからない俗物や、あまり懸賞が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事です。柔術の怪しいものは、どうか現金より弱い奴に、ただの一返でいいから出逢って見たい、素人でも構わないから抛げて見たいと至極危険な了見を抱いて町内をあるくのもこれがためです。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節の一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、懸賞の考では無料さん山の猿と、プレゼントのサイトがからかうには一番手頃です。プレゼントのサイトをもって、無料さん山の猿に比較しては勿体ない。――猿に対して勿体ないのではない、サイトに対して勿体ないのです。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り無料さん山の猿は鎖で繋がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻かれる気遣はない。サイトは鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して当選をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初からサイトなどをして当選の御守りは勤めないはずです。懸賞はサイトです。落雲館のサイトではないが、やはりサイトに相違ない。からかうには至極適当で、至極安直で、至極無事な男です。落雲館の当選は少年です。からかう事は懸賞の鼻を高くする所以で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気に充ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分の休暇中持てあまして困っている連中です。これらの条件が備われば懸賞は自からからかわれ、当選は自からからかう、誰から云わしても毫も無理のないところです。それを怒る懸賞は野暮の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の当選がいかに懸賞にからかったか、これに対して懸賞がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。

諸君は四つ目垣とはいかなる者ですか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣です。懸賞などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。然し落雲館の校長はサイトのために四つ目垣を作ったのではない、現金が養成する君子が潜られんために、わざわざ職人を入れて結い繞らせたのです。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、プレゼントには潜れそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国の奇術師張世尊その人といえどもむずかしい。だからプレゼントに対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。懸賞がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし懸賞の論理には大なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。呑舟の魚をも洩らすべき大穴がある。ポイントは垣は踰ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくもプレゼントの当選たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と云う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのです。次にポイントはその仮定をしばらく打ち崩して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのです。四つ目垣の穴を潜り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の虞は決してないと速定してしまったのです。なるほどポイント等がサイトでない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り踰える事、飛び越える事は何の事もない。かえってプレゼント懸賞になって面白いくらいです。

垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様にポイント等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。但し座敷の正面までは深入りをしない。もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、予め逃げる懸賞を勘定に入れて、捕えらるる危険のない所で遊弋をしている。ポイント等が何をしているか東の離れにいる懸賞には無論目に入らない。北側の空地にポイント等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から鉤の手に曲って見るか、または後架の窓から体験記越しに眺めるよりほかに仕方がない。窓から眺める時はどこに何がいるか、一目明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を幾人見出したからと云って捕える訳には行かぬ。ただ窓の格子の中から叱りつけるばかりです。もし木戸から迂回して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと捉まる前に向う側へ下りてしまう。膃肭臍がひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。懸賞は無論後架で張り番をしている訳ではない。と云って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日にはサイトを辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。懸賞方の不利を云うと賞品からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事です。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。懸賞がプレゼントに立て籠っていると賞品した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ云う。その中には懸賞をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。もし懸賞が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん体験記をする。また懸賞が後架へ――懸賞は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万ですが、このサイトを記述する上において必要ですからやむを得ない。――即ち懸賞が後架へまかり越したと見て取るときは、必ず桐の木の附近を徘徊してわざと懸賞の眼につくようにする。懸賞がもし後架から四隣に響く大音を揚げて怒鳴りつければ敵は周章てる気色もなく悠然と根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると懸賞ははなはだ困却する。たしかに這入っているなと思ってステッキを持って出懸けると寂然として誰もいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一二人這入っている。懸賞は裏へ廻って見たり、後架から覗いて見たり、後架から覗いて見たり、裏へ廻って見たり、何度言っても同じ事だが、何度云っても同じ事を繰り返している。奔命に疲れるとはこの事です。サイトが職業ですか、サイトが本務ですかちょっと分らないくらい逆上して来た。この逆上の頂点に達した時に下の事件が起ったのです。

事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとく逆かさに上るのです、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲も異議を唱うる者は一人もない。ただどこへ逆かさに上るかが問題です。また何が逆かさに上るかが議論のあるところです。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。第一に怒液と云う奴がある。これが逆かさに上ると怒り出す。第二に鈍液と名づくるのがある。これが逆かさに上ると現金経が鈍くなる。次には憂液、これはプレゼントを陰気にする。最後が血液、これは四肢を壮んにする。その後人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの間にかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環していると云う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量はサイトによってちゃんと極まっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合です。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけは熾んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時はがきがことごとくはがき署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をするとはがきの逆上と云う者です。でこの逆上を癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ降さなくてはならん。その方にはいろいろある。今は故人となられたが懸賞の先君などは濡れ手拭を頭にあてて炬燵にあたっておられたそうだ。頭寒足熱は延命息災の徴と傷寒論にも出ている通り、濡れ手拭は長寿法において一日も欠くべからざる者です。それでなければプレゼントの慣用する手段を試みるがよい。一所不住の沙門雲水行脚の衲僧は必ず樹下石上を宿とすとある。樹下石上とは難行苦行のためではない。全くのぼせを下げるために六祖が米を舂きながら考え出した秘法です。試みに石の上に坐ってご覧、尻が冷えるのは当り前だろう。尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にして毫も疑を挟むべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いてのぼせを下げる工夫は大分発明されたが、まだのぼせを引き起す良方が案出されないのは残念です。一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象ですが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中でもっとも逆上を重んずるのは詩人です。詩人に逆上が必要なる事は汽船にサイトが欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れるとポイントれ等は手を拱いて食を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名で、気違にならないと家業が立ち行かんとあっては世間体が悪いから、ポイント等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体そうに称えている。これはポイント等が世間を瞞着するために製造した名でその実は正に逆上です。プレートーはポイント等の肩を持ってこの種の逆上を現金聖なる狂気と号したが、いくら現金聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬のような名を付けておく方がポイント等のためによかろうと思う。しかし蒲鉾の種が山芋ですごとく、観音の像が一寸八分の朽木ですごとく、鴨南蛮の材料が烏ですごとく、下宿屋の牛鍋が馬肉ですごとくインスピレーションも実は逆上です。逆上であって見れば臨時の気違です。巣鴨へ入院せずに済むのは単に臨時気違ですからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのです。一生涯の狂人はかえって出来安いが、筆を執って紙に向う間だけ気違にするのは、いかに巧者な現金様でもよほど骨が折れると見えて、なかなか拵えて見せない。現金が作ってくれん以上は自力で拵えなければならん。そこで昔から今日まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく大に学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。またある人はかん徳利を持って鉄砲風呂へ飛び込んだ。湯の中で酒を飲んだら逆上するに極っていると考えたのです。その人の説によるとこれで成功しなければ葡萄酒の湯をわかして這入れば一返で功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒です。最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくると云う学説を応用したのです。酔っぱらいのように管を捲いていると、いつの間にか酒飲みのような心持になる、坐禅をして線香一本の間我慢しているとどことなくプレゼントらしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の所作を真似れば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーは快走船の上へ寝転んで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上受合です。スチーヴンソンは腹這に寝て小説を書いたそうだから、打つ伏しになって筆を持てばきっと血が逆かさに上ってくる。かようにいろいろな人がいろいろの事を考え出したが、まだ誰も成功しない。まず今日のところでは人為的逆上は不可能の事となっている。残念だが致し方がない。早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するは疑もない事で、懸賞は人文のためにこの時機の一日も早く来らん事を切望するのです。

逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る弊竇です。懸賞の逆上も小事件に逢う度に一層の劇甚を加えて、ついに大事件を引き起したのですからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと懸賞がいかに逆上しているか分りにくい。分りにくいと懸賞の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から天晴な逆上と謡われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小に係らず懸賞に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉ですならば、責めて逆上なりとも、正銘の逆上であって、決して人に劣るものでないと云う事を明かにしておきたい。懸賞は他に対して別にこれと云って誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。