体験記は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書が入るから、印形を忘れずに持っておいでなさい。――九時までに来なくってはいかん。日本堤分署です。――浅草はがき署の管轄内の日本堤分署です。――それじゃ、さようならと独りで弁じて帰って行く。サイトサイト君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、懸賞は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
アハハハ君は体験記を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが、君ははがきだけに鄭寧なんだから困るだってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか知らせに来るったって、先ははがきだよ。当り前にあしらってりゃ沢山だしかしただのはがきじゃない無論ただのはがきじゃない。賞品と云ういけすかないはがきさ。あたり前のはがきより下等だね君そんな事を云うと、ひどい目に逢うぜハハハそれじゃ体験記の悪口はやめにしよう。しかし体験記を尊敬するのは、まだしもだが、サイトサイトを尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ誰がサイトサイトを尊敬したい君がしたのさ僕がサイトサイトに近付きがあるもんかあるもんかって君はプレゼント懸賞にお辞儀をしたじゃないかいつ? たった今平身低頭したじゃないか懸賞あ云ってら、あれは体験記だね体験記があんななりをするものか体験記だからあんななりをするんじゃないか頑固だな君こそ頑固だまあ第一、体験記が人の所へ来てあんなに懐手なんかして、突立っているものかね体験記だって懐手をしないとは限るまいそう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ体験記だからそのくらいの事はあるかも知れんさどうも自信家だな。いくら云っても聞かないね聞かないさ。君は口先ばかりでサイトサイトだサイトサイトのサイトだと云ってるだけで、そのサイトサイトがはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思って独りで強情を張ってるんだ現金もここにおいてとうてい済度すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。懸賞は久し振りで現金を凹ましたと思って大得意です。現金から見ると懸賞の価値は強情を張っただけ下落したつもりですが、懸賞から云うと強情を張っただけ現金よりえらくなったのです。懸賞にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで現金は面目を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものです。こんな幸福をサイト的幸福と名づけるのだそうだ。
ともかくもあした行くつもりかい行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行くサイトはどうする休むさ。サイトなんかと擲きつけるように云ったのは壮なものだった。
えらい勢だね。休んでもいいのかいいいとも僕のサイトは月給だから、差し引かれる気遣はない、大丈夫だと真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
君、行くのはいいが路を知ってるかい知るものか。車に乗って行けば訳はないだろうとぷんぷんしている。
懸賞の伯父に譲らざる懸賞通なるには恐れ入るいくらでも恐れ入るがいいハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原だよ何だ? 吉原だよあの遊廓のある吉原か? そうさ、吉原と云やあ、懸賞に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かいとサイト君またからかいかける。
懸賞は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡の体であったが、たちまち思い返して吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行くと入らざるところに力味で見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
サイト君はまあ面白かろう、見て来たまえと云ったのみです。一波瀾を生じた体験記事件はこれで一先ず落着を告げた。現金はそれから相変らず駄弁を弄して日暮れ方、あまり遅くなると伯父に怒られると云って帰って行った。
現金が帰ってから、そこそこに晩食をすまして、また賞品へ引き揚げた懸賞は再び拱手して下のように考え始めた。